メフメト2世は数々の輝かしい功績を持つオスマン帝国第7代皇帝です。
イタリア攻略を阻止するため、スレイマンを狙ったローマ法王の刺客はオルトラントの騎士プリマルドでした。
オルトラントはメフメト2世がローマを目指してイタリア半島に進軍した時に初めに上陸した町です。オスマン軍は、一度はオルトラントを征服しましたが、メフメト2世の突然の崩御で奪還されてしまいました。
スレイマンはそんな曽祖父メフメト2世の悲願であったローマ攻略のためにイタリアへ出発したのです。
オスマン帝国を世界帝国にしたのはメフメト2世ですが、実は何度か退位させられたという過去があります。
何度も即位したメフメト2世
オスマン帝国を世界帝国にしたのはメフメト2世ですが、一度退位させられたという過去があります。
メフメト2世は父ムラト2世からわずか12歳のころに譲位されて帝位につきましたが、幼い皇帝を甘く見たハンガリー王とポーランド王が国境線を脅かし、幼帝では対処が困難だと見た宰相ハリル・パシャがムラト2世に復位をすすめ、メフメト2世は退位させられました。
その後、事態を収拾したムラトはまた帝位をメフメトに譲りましたが、その後イニチェリの反乱が起こり、またもムラトが復位をして対処にあたるという、メフメト2世にとっては臍をかむような日々が続きました。
父ムラトの死によってようやく本当の皇帝に即位したメフメト2世は、自分の地位を盤石にするため、幼い弟を絞殺し、イニチェリを味方につけるために報奨金を与えたといいます。
さらに、メフメトを帝位につけることに反対したと言われているイスハク・パシャを追放しましたが、同じように反対したと言うハリル・パシャは、その力の強さから排除できませんでした。
しかし、コンスタンチノーブルを手に入れた後、コンスタンチノーブル攻撃に反対していたハリル・パシャは「利敵行為」を理由に家族ともども処刑されます。
「征服者」メフメト2世
そんなメフメト2世ですが、実はオスマン帝国の支配地を広げた功績から「ファーティフ(征服者)」と呼ばれています。
メフメト2世の前にもコンスタンチノーブル攻略は行われましたが、いずれも成功せず、帝国の悲願となっていました。
キリスト世界からの反発を恐れたハリル・パシャは、コンスタンチノーブル攻略に反対しましたが、メフメト2世は反対を押し切って攻撃を開始し、悲願のコンスタンチノーブル攻略を成功させました。
コンスタンチノーブルに入ったメフメト2世は街を荒らさないよう通達を出し、略奪行為を禁止して街並みを保護したおかげで、「世界一の大都市」コンスタンチノーブル(現イスタンブール)は今も素晴らしい景観を残しています。
スレイマンの御代では良くも悪くもこのメフメト2世が決めたことが国是として守られてきています。
エブッスードがキリスト教徒とイスラム教徒の争いを裁いた時もメフメト2世がコンスタンチノーブルの市民に約束した誓約が根拠になっていましたが、メフメト2世はイスタンブールに帝都を置いてから、様々な規定を作らせて法整備したのです。
兄弟殺しについても法官にその正当性を認めさせ、これ以後は「法的にも」兄弟殺しは認められることになりました。
その後も、ペロポネソス半島やセルビアを征服し、アナトリア北部のトレビゾントを手中にし、領地を広げましたが、メフメト2世の征服欲はとどまることを知らず、ワラキアやハンガリー、ベネチアとも戦闘を繰り返しています。
15年以上もオスマン帝国と戦いを続けたベネチアは国庫が疲弊し、持ちこたえられなくなったためオスマン帝国と和平協定を結ぶことになりました。
ベネチアがオスマンと和解したため、孤立したモルダヴィアはオスマン帝国に降伏しました。
オルトラントの戦いとメフメト2世の最期
ロードス島攻略に失敗したオスマン軍は同じ年に海からオトラントを攻略、占領に成功しました。イタリア上陸を許してしまったキリスト教世界(特にローマ法王庁)は驚愕し、ローマがコンスタンチノーブルの二の舞になるのではないかと危惧した法王はローマから逃亡、十字軍派遣をヨーロッパ諸国に通達したものの、それに呼応するものはなく、あわやローマ陥落という危機に面していました。
当時すでにメフメト2世は病身でしたが、悲願のローマ攻略のために自ら兵を率いてオルトラントに向かいました。
しかし、ユスキュダルから約20kmのテクフル・チャイリでメフメト2世は陣没しました。
病身であったため病死だと考えられていますが、「毒殺された」という説もまことしやかにささやかれていて、ドラマではその説を採用していましたね。
皇帝を失ったオスマン軍は急速に士気が落ち、オルトラントを取り返されてしまいました。