先に独り立ちしたムスタファ皇子は、「玉座に最も近い」と言われるマニサに赴任していましたが、ヒュッレムの横やりによりメフメト皇子にマニサを奪われ、失意のうちにアマスヤへと追いやられてしまいました。
マニサとアマスヤの違いと意味
マニサもアマスヤも、歴代の皇子たちが赴任した重要拠点です。
マニサから帝都に入った皇帝は、ムラト2世、メフメト2世、スレイマン1世、セリム2世、ムラト3世など16人に上ります。一方、アマスヤはメフメト1世、ムラト2世、メフメト2世、セリム1世などが一時期赴任していた重要都市で、サファビー朝との国境に近い戦略的に重要な都市でした。
マニサは帝都から近く、「事が起こった」際にはいつでも帝都に乗り込める好位置にあります。一方、アマスヤは若干距離があります。つまりはスレイマンの身に万が一のことがあった時に、マニサなら自軍を率いていち早く帝都に入城することができるということです。
そして、スレイマンがサファビー朝と「アマスヤ条約」を締結するまで、前線都市であったため、帝都に向かおうとするときに背後を突かれる可能性もあります。
ムスタファ皇子がアマスヤに配置換えされた時、東方とは敵対関係であり、小競り合いも続いていましたので、皇子は「玉座が遠のいた」と嘆いたことでしょう。
マニサとアマスヤの歴史
マニサは1412年にオスマン帝国の支配下に置かれました。それ以前はサルハン公国が統治していて、サルハン公国の首都であったマニサには立派な教育施設やモスクがあり、オスマン帝国はそれらを「皇子の教育機関」として利用していたようです。
また、サルハン公国は強力な海軍を有していたため、軍港としても使われていたようです。
ドラマの中でムスタファ皇子が再建しようとした造船所はこのサルハン公国が建設したもので、オスマン帝国に支配された後、規模を縮小されて廃れたものではないかと思います。
一方アマスヤは、オスマン1世の祖父スレイマン・シャー等が参加したといわれるマンジケルトの戦いで、セルジューク朝がビザンツ帝国に勝利して奪い取りました。
その後、この地域でチュルク系遊牧民の反乱が起こったりして混乱、そのために疲弊したセルジューク朝はモンゴル帝国にこの地域を奪われ、しばらくの間モンゴルの知事がこの地を治めました。
その後バヤジット2世の時にオスマン帝国の支配下にはいり、バヤジット2世は息子のメフメト1世にアマスヤを任せ、ここでメフメト1世は手腕を発揮し、バヤジット2世はその後もアマスヤをメフメト1世の領地とします。
しかし、バヤジット2世はアンカラの戦いでティムールに捕虜になり、そこで客死。
しばらく皇帝は空位となり、皇子たちの間で跡目争いが起こってしまいましたが、アマスヤにいたメフメト1世が即位、弱体化したオスマン帝国を再建したのでした。
そういう意味ではアマスヤも「縁起のいい」赴任地ではありますね。
アマスヤの重要性は近代でも変わらず、革命運動の最中、アタチュルクはアマスヤに入り、ここで「アマスヤ通達」を行いました。
アマスヤはトルコの地勢的に重要な位置にあるということでしょう。
いかがでしたか?マニサとアマスヤ、どちらもトルコの歴史上重要な都市です。
しかし、帝都にいち早く入ることができるのがマニサであるため、マニサが「帝位に近い」赴任地となっているのです。
ムスタファ皇子はマニサから追われ、後に入ったメフメト皇子はマヒデブランの刺客によって命を奪われました。しかし、ムスタファ皇子は結局マニサに戻ることはできませんでした。
ムスタファ皇子の苦悩はまだまだ続くことになるのです。
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